読んだもの

ある一人の友人を想定読者に書いていくブログ∧独学ノート。

タイ旅行(2023/12/22-29)

12/22-29でタイにいる。変なものをたくさん摂取する体験をしている。また書くかもしれないし、対面での話のみに留めるかもしれない。初対面の知り合いと来て、よい体験をしているが、おれには一人旅のほうが向いていると思った。

 

ツイッターで誰かが言っていたが、創作は一人でやると世界に開き、仲間とやると仲間に閉じるらしい。バンドをやっている身として、創作に関してはそうは思わないが、こと旅行に関してはこれが強く当てはまる。今回は3人旅だが、観光スポットや色々なものの摂取こそすれ、タイ語を覚えたり人と仲良くなったりすることは今のところほとんどない。この3人でしかできないことをしてはいるものの、ひとり街をうろついて、一介の通行人/旅人として生活や日常に触れることはできていない。

精神はより交通しやすいものと交通してしまう。通常交わることのなかったであろう現地の精神と自分の精神を交通させるには、3人では多すぎた。次の旅行に関しては、少なくとも一人旅の行程を設けよう。

 

チャイナタウンを訪れて、中国語の学習へのモチベーションが上がった。2週間ほどの期間を設け、台湾にニセ語学留学をしたいと思う。日本で中国語を勉強したうえで台湾に渡航し、語学学校には通わずに、例えば台湾大学のキャンパスを訪れて(英語/中国語で)友人を作り、その友人とともに遊びに行った際にまた友人を作り、……と続けて、実際の運用能力と現地の精神との交通をひたすら行う。無理難題に近いことは承知しているが、それを実現するために少しばかり動いてみたい。文法をもう一度さらいつつ、単語(というより漢字の読み)をひたすら覚えよう。日本人が中国語で欠片も意思疎通ができないのは、中国語における漢字の読みをほとんど知らないからだ。リスニング能力もスピーキング能力も、そこを補えば底上げされるだろう。小学一年生の気持ちに戻って、漢字練習帳の音読をたくさんやろう。

 

おれがベースを弾く理由は、楽器自体が楽しいからというより、様々な自分にない個性を持つ者たちと一緒に芸術を作り上げるのが楽しいからだ。たとえばカリスマを一番よい位置から観ることができる。あまつさえ自分のフレーズで操ることも。おれにとってコミュニケーションツールにあたる。だから、つい練習をおろそかにしてしまう。バンドという共同体を追放されない最低限のレベルを維持するだけで、あまり向上心を持続させられない。よくないとはわかっているが、なかなか練習を習慣とすることは難しい。今度行動設計を始めるなら、まずはベースの練習についてハックしようと思う。

 

なぜ、海外にいるとにゃーろんず(特に『ポケットに虹をつめて』〜『ズットチル』)がここまで心に染み渡るのだろうか。にゃーろんずがアフリカにおけるおれの最大の味方の一つだったのも一つの理由になるが、それにしても機内で聴くと必ず涙を流してしまうのは本人たちの魔力によるものが大きいだろう。通常のバンドサウンド的ポップスからkawaii future bassまで網羅する骨太なサウンドに乗った繊細な歌声、そしてノスタルジックな歌詞がじわじわと孤立感(≠孤独)に効いてくる。

にゃーろんずには職業作曲家によるNFTやAIボーカルなどの音楽テクノロジーの実験台としての面もあるが、最近のにゃーろんずをすべて聴けているわけではないから、それを論じるために音源を買い集めようと思った。

眠れずドミトリーのロビーを彷徨いていたら、受付のタイ人のおじさんに煙草を分けてもらった。お互いに片言の英語で話しながら煙草に火をつけてもらう。おじさんは夜勤の時間でヨーロッパサッカーを観ているらしく、リヴァプールを応援していた。そういえばルワンダ人もヨーロッパサッカーを観ていたな。タイの街並みにサッカーユニフォームを売るお店も多い。

イープン(日本)から来たことを伝え、これまでとこれからの行程を話す。チェンマイに行けなかったこと、バンコクよりスラートターニーのほうが好きなことなどを話す。

話している途中で煙草を吸い終わる。メンソールが入った、軽い煙草。日本のおじさんとあまり変わらないな。先に吸い終わっていたおじさんが翻訳機としてスマホを持ってくる。タイ語で発信する日本人YouTuberを見せてくれた。

タイのお寺の詣り方やら日本のお寺との違いやらを話していると、缶のコカコーラまで分けてもらってしまった。コロナの後遺症はいつの間にかなくなっていて、香りを感じて美味しく飲めた。新年は日本で祖父たちと迎えるために帰ると話した。いつかまた来ると言って、部屋に戻る。

刺激物を取りすぎてさらに眠れなくなり、こうして文章を書いている。微積分をやってもよかったが、今更ロビーに戻るのも気まずい。旅情としてにゃーろんずを聴きながらこの文章を書いている。4:35だし、もう寝よう。

 

 

年が明けた。地元の神社(not氏神)の初詣の列に並んで年を越した。神酒の量が案外に多すぎて半ば頭が回らなくなっている。最初に聴く音楽はゲンショク綺談の駒場祭ライブ録音、アンコールの「もう待てない」とした。

この一年のテーマは、抑制と解放のよりよい制御とする。肛門期をもう一度、今度はしっかり楽しくやりたい。この一瞬ではなく、楽しさを時間で割った平均値を最大化する。要は、昼まともに活動し、中期的なプロジェクトに参画しつつ、享楽的に生きるということだ。

 

おれは旅行先の風景やら浮かんだアイデアやらを抑制=31文字に収まる形に減算することで短歌を詠んでいる。そしておそらく作曲も似た工程を経るものであると思う。一方、バンドでのアドリブにおいては一定のルールに沿った解放が求められる。そちらはある程度できるが、作曲はできない。抑制の上達を頑張りたい。

 

12/30に、駒場の科学技術論で博士をやっている方とご飯を食べた。タイでの(サイケデリック)体験を話し、素面でのキマり方について話し合った。彼は一時期早起きでキマるようになっていたが、今はそうでもないらしい。そして、頭の使い方にメリハリをつけることで楽しく生活ができているらしい。曰く、ゆるめるとひらがなも書けなくなる。

日本で精神に影響する薬物を摂ることは難しい。だから、素面の状態で精神に変性をもたらす必要がある。そのために、享楽的に生きることを今年の目的とする。勉強を頑張るとしても、それは精神に変化をもたらすためだ。たとえばコンピュータ科学の勉強であれば、自分へのアルゴリズム=思考法の実装と、仕事などとして行ける場所を増やして人と会うためという目的がある。

 

タイでのサイケデリック体験から、ストレスをためる心の容器の底に小さく穴が空いたような実感がある。電車の中で人々の顔を見渡してはその情報量の大きさ(あるいは小ささ)に憤慨する自分がいるが、そのストレスを引きずらなくなった。

 

最近、サイケデリクスの情報収集をするようになった。シリコンバレーの薬物汚染の記事を読み、LSD大好きなアメリカ人がキマッてる人たちにインタビューする動画を垂れ流し、明日はハクスリーやらの本を読む。ここまでサイケデリクスに心を惹かれているのは、タイでの体験を措くとして自我の変性に興味があるからだろう。幻覚剤で一度ぐにゃぐにゃに歪んだ世界を観たうえで、それでも変わらない自分があることを確認してみたい。いや、幻覚剤はただのツールにすぎない。酒やら糖分やらのソフトドラッグ、そして音楽や映像といった五感に訴えかける芸術、他人との一体感、そういったすべての体験によって自我を再編成することを目指そう。享楽的に生きるというのは、そういった体験のために飛び込める人間になることを目指すということだ。60年代後半からの文化に惹かれているのは、薬物などの具体的な面があるとしても、抽象的な部分で青年たちが社会と自己を改良することを目指し、下部構造に乗ってそれがうまくいったからだ。まだ若いし、少なくとも20代のうちは自らの可能性を上向きととらえたい。ビッグテックに入社して西海岸の文化に浸りながら一人旅を続けつつ仕事をするという数年後の自分を想像したり、一人旅のための金をためながら勉強を続けようと考えることもある。それを実現するために、下部構造を整えて、システム1だけで生活していても目標に到達できるようにしよう。

 

何も継続できないという悩みは、やはり通時的な自我が弱いことに起因するだろう。何かのために働くということがいままであまりできなかった。子供が野菜を美味しく食べられるようになるまで時間がかかるように、何かを楽しく感じるようになる(強化できる報酬を得られる)までは時間がかかるから、いろいろなものに手を出すとしても、それまでやめずに忍耐するのが今年の目標となる。

 

電磁気学写経のページがとんでもなく重い。分割したらかなり軽くなったが、これは単純な量が悪いのか、それとも数式や図が重いのか。このページはそれほど重くないし、おそらく後者だろう。図を写真で入れていた3章を抜いたらかなりマシになったので、図が悪さしていると推測する。しかし今日(1/18)はやけに突っかかるところが多い。変数がいきなり消えたり、無理のある変形がなされたりするところにやけに多く気がつく。ペースも落ちるし、何よりモヤモヤが残るが、未来の少し賢い自分に任せるとする。

 

継続することで自我を変容させることが今年やることの一つとなる。例えば語学、身体化された母語とは違った思考の構造化のやり方を学ぶことで、考え方に間違いなく変化があるだろう。第二外国語である中国語は1日3分Duolingoで触っているが、余裕ができたときにAnkiかなにかに切り替え、本腰を入れてもよいかもしれない。買ったままになっている『第九軍団のワシ』とか洋書も読みたい。

ただ、継続の難しさを身にしみて知っているので、できるか不安に思っている。自分の身体への鈍感さ、勉強自体の遅効性を考えると、明確にキマるときというのは存在しないだろうし、テストでもないと節目は生まれないだろう。中国語ならHSKやら中検になるだろうな。情報科学の勉強のツールとして、無料で受けられる公務員試験を受けてみようと思う。就活の言い訳もつく。

そのためには勉強をしなければならない。そして、そのために時間を作らなければならない。ならば、毎日9時に家を出るリズムを作ろう。出て何もすることがないなら散歩で良いし、外の温度を確認するだけでも良い。独学大全に時間管理の章があったから、あとで実践してみよう。

 

しかし、なんでユーミン(荒井由実)は1973年の『ひこうき雲』から全く古びていないんだろうな。ツイッターか何かで、八代亜紀は感情移入の余地を作るため歌に気持ちをあえて載せないというようなことが書いてあったが、表題曲の歌唱に同様のものを感じた。例えばラスサビで伸びやかに歌っているが、そこに何かが乗っている感じはあまりしない。そして、その余白にリスナーが入り込んで感動している気がする。

ベクトルはまったく違うが、音楽のほうがキマる。

 

おれは数日後の自分のことをもう少し思いやってあげたほうが良い。読んだものはPDF2ページ以上ならメモを取ったほうが良い。肩の上に乗れる自分だけの巨人を作るつもりで、どのような形でも良いから文献記録を取ろう。

Tex打ちのペースが上がっているのがわかる。これは間違いなく慣れだ。そして、手をつけるまでの時間が増加していることも。数式への慣れによってわからない部分の存在がだんだんとわかるようになってきたために、手を付けることで発生する前後との脈絡の確認=復習の負荷を重く感じているのだろう。その場では手を付けるしかないが、それ以外の場面ではテキストを持ち歩いて読むだけの復習をしてもよさそうだ。

小山慶太『マンガおはなし物理学史』(2023/12/12)

通常マンガは記録しないが、講談社ブルーバックスでかなりテキスト量が多かったのでヘッドラインとする。

物理学史を概観するマンガ。ニュートンから始まる力学・ガルヴァーニの生体電気発見から始まる電磁気学を概観し、古典物理学が20世紀はじめのプランクによるエネルギー量子発見により限界を迎えて量子力学相対性理論が開拓されるまでを描く。最後は湯川の量子論・ガモフによるビッグバン仮説で終わる。

学習まんがは概観に適するが、あまり情報を印象に残すのには適していない。そのため、何かしらの形で残す必要がある。また、特に文系の学問で問題のありかを整理するとき、歴史を語り直すことが最初のステップになる。そのため、これから何かの分野に入門するときは、まず年表をまとめることとしたい。

 

国立大学法人法改悪反対運動を行っている友人に誘われ、参院文教委員会を傍聴した。生で蓮舫が人を詰めているところを初めて見た。広島出身の坂口議員が開口一番はだしのゲンの話を盛山大臣にしはじめたのが面白かった。船後議員はれいわの送りこんだ爆弾だ。友人とは合流できず、4時間アウェーを感じながら座っているのが辛くて質疑終了後に退席した。委員会採決は結局止まらなかった。

 

手も動かさずに独学の方法を調べている。このページで見つけた東京大学工学教程はかなり良いかもしれない。

視界がつねに号泣した後のようにぼやけている。これまで視力1.5の裸眼で通してきたが、長い引きこもり生活で焼きが回ったか。この生活の文書と報告による総括もいつかせねばなるまい。またこのブログを宛てた友人にお世話になるか。

出来事や思いつきを書くのなら、一文程度で終わらせずいくらか長く書くのが良さそうだ。そもそも、人に宛てた手紙でもあるものに対し、ちり紙のごとく書き捨てる運用をしてはいけない。全学で回ってきたイベント応募フォーム700字をなんの気なしに書いたら案外よい頭の体操になった。

 

作曲をしようと思いながらしていない。メトロノームから作るという方法を考えた。元ネタはSuiseiNoboAzbaseball song”だ。

おれにはくだらない歌詞をつけたくないという意識がある。感性を運用する作曲に自信を持てず、後回しにしようとする。だから詞先で考えようとして、失敗する。これまで作曲らしい作曲はほとんどしてこなかった。枚挙するなら、中学生のサマーキャンプ、高1のちょっとした打ち込み、2022年の失敗したガラクタどもだ。高1の音楽の授業では、自縄自縛の結果人前で即興で歌う羽目になったが、あれは忘れよう。振り返ってみると、作詞作曲の成功経験はないと言ってもよい。

今回の作詞作曲チャレンジの目的は、自分で悪くないと思えるワンコーラスを作り、成功経験とすることだ。成功経験をもって初めて、作詞作曲についてある程度の判断ができるようになる。その第一歩を極端に小さくするために、メトロノーム、弦楽器一本、歌一人と楽器を絞り、曲構成の各パーツの小節数も8と決めよう。コード進行は楽器を持って決めるか、または好きな曲から拝借する。コードを決め、伴奏のパターンを決め、その録音に合わせてメロディを歌い、歌詞を乗せる。それぞれ制限時間を20分程度としよう。そうして生まれた成果物を、納得できるまで推敲する。作業に飽きたら完成、何人かの友人に送ろう。

過剰な自意識を一度リセットし、手と口に任せてできたものを一度見てみよう。嫌に感じるならインプットの不足を疑おう。他者の奏でるメロディを自分で再演し、血肉としてもう一度臨もう。では、いつやるか。

大江健三郎『見る前に跳べ』(2023/12/1)

“Look if you want to, but you will have to leap”

ネットサーフィンで書名を見て、岡林信康の同名のアルバムを思い出したので図書館の全集を漁って読んだ。

大江健三郎が巧すぎて、ちょっと怖かったのでがっつり音楽をかけながら読んだ。808 Stateの無感情なビート。

  • あらすじ(固有名詞を覚えていない)

    東大仏文科の主人公は外人向け娼婦の良重と同居し、ときどき良重の客の通訳をしながら勉強し、仕事から帰ってきた良重と愛し合いながら眠る生活を送っている。政治活動をする学生との喧嘩で殴られた日、良重とその客と3人でナイトクラブへディナーへ行く。露出度の低い服を着た顔の青い女が歌っており、3人はそれを茶化す。主人公はニヒリスティックな「戦争に行きたい」という希望があることを公言していたが、良重の客に実際に戦地へ行く機会を与えられると結局何もせず、見る前に跳ぶことができないことを痛感する。その日の帰り、主人公はその客をだまし討ちで冬の川に落とす。

    ある日、研究室の助手に紹介され、主人公は芸大志望の女子学生の家庭教師をすることとなる。その女子学生はナイトクラブで歌っていた女であり、主人公は気に入って無料で授業を始める。いつしか二人は愛し合うようになり、女は懐胎し、主人公は良重と別れてアルバイトに精を出すようになる。はたして女は試験を突破したが、健康診断で肺病であることがわかり、出産すると命を落とすことがわかる。重苦しい空気の中、女は掻爬中絶を行い、そのまま二人は別れる。主人公は魂が抜けたように日々を過ごす中、良重と再会し下宿までついていくが、不能になった自分・見る前に跳ぶことができない自分に気づく。寝ている良重を置いて主人公は出ていく。

かなりかき乱されている。これだから小説を読むのは苦手だ。なぜ今の子は恋愛しないのか、という問が立って久しい。情動を捧げるのが嫌だからなのだろうか。それとも、半ば不本意な形でアテンション・エコノミーに可処分時間とエネルギーを捧げているからなのだろうか。そういう記事(ツイッターの投稿だったかも)を読んだ気がするが、思い出せない。

かき乱されたのは、多分女性の体、特に掻爬の描写のような人間のグロテスクさを描写する部分だろう。この小説について批評を出すことがあればそこの描写にこだわるだろうな。

あと、掻爬はそろそろグロテスクにすぎるので日本でも中絶薬の安全なアクセスを作ったほうが良い。アレ、一体誰がブロックしているんだろうね?

20世紀の詩人オーデンによる同名の詩がある。全集の翻訳を読んでも印象に全く残らなかったが、原文が良かったのでリンクを貼っておく。ところどころ知らない単語が出るが、高校までの英語で十分読めるレベルだ。おれたちは安穏としていられない。跳ばなければならないときはかならず来る。

そして、岡林信康の『見る前に跳べ』。全共闘バリケードの中にいた学生の精神性はだいたいこんなものなのだろうと思う。特に、「自由への長い旅」「私たちの望むものは」「今日をこえて」あたりか。「私たちの望むものは」から、最後の歌詞を引用する。

今ある幸せにとどまってはならない まだ見ぬ不幸せに今跳び立つのだ

順番としては、オーデン→大江→岡林。検索によれば、大江→岡林の間に早川義夫という日本語ロックの先駆者が挟まる。『見る前に跳べ』のタイトルが出てきた「堕天使ロック」も、早川義夫率いるジャックスの作である。

同じ大江の『我らの狂気を生き延びる道を教えよ』を読もうかと思ったが、夜も遅いし全集を持ち帰るわけにもいかないのでやめておく。

どうやら、こちらにもオーデンの詩が引用元にあるようだ。

 

電磁気学、どうやら学び方はいろいろあるらしい。今の教科書がそれなりに長く退屈なのと、ステップアップするための高校物理はわりとかんたんに学べてしまうのと、電磁気学での到達目標であるマクスウェル方程式から入ってすべてを導出してくれる教科書が存在するのとで、少しばかり迷ってしまっている。写経レベルで写すのをやめるべきか。

カウンセラーさんと相談して、このままやることにした。月・水に2時間ずつ、あとはやりたい勉強をやりたいタイミングで進める。研究室へのメールも送る。

 

CANがトチ狂っていて気持ち良い。しっかり教育を受けた骨太の楽器隊の上に、強烈な個性のボーカルが乗っている。楽器隊はわかっていておかしい事をやっているし、ボーカルはその楽器隊によって「歌が下手なやつを」選抜されている。ライブはローテーションを組んで24時間ぶっ続けでやったらしい。

聴いた音楽についても記録をつけるべきか。

 

外山合宿の同期と12/22-29でタイに行くことになった。金をつくらねばならない。アフィリエイトのセルフバックで稼ごうとしているが、間に合わない可能性も高い。フリーランスなどに限らず、とりあえず働いてみるべきなのだろうか。金策を探して実行しなければならない。

 

電磁気学、ベクトル解析を学んでおかないとこの先ちょっときついかもしれない。マセマの薄いやつをペラペラってやるか。どの記号や数式が何を意味しているかがだんだん追えなくなってくる。必要なのは概念をある程度理解して土台とすることなので、そこまでの精度は必要ない。どこの大学の書籍部でも売ってる軟派な得単のためのシリーズをやるか、それともヨビノリが勧めるやつをやるか。

 

12/11、ライブをやった。

独学本オムニバス(2023/11/28)

ゆっくり電磁気学を進めている。カウンセラーさんの勧めで、毎週やる時間帯を決めて継続することになった。月火と動けなかったので、水曜日17:00-19:00となるか。または、水・金に図書館に来て2時間やる形か。

 

頭の動かし方を追体験し、体系的に知識をインプットするという目的で教科書の写経を始めたが、写経は時間がかかる。Texでの数式入力がどんどん上手くなっていくのを実感できるが、それでもゆっくりであることには変わりない。もっと効率の良い学び方を探したほうがよいだろうか。ヨビノリでノートとるとか。現在の、巨大なナマのかぼちゃをゆっくりかじっていくような勉強法は正しいのだが、少し焦りがある。独学に関する本をいくつか読むこととする。

  • 千葉雅也『勉強の哲学』勉強は専門分野のノリに入っていくことだが、深堀り(アイロニー)も横滑り(ユーモア)もきりがないので有限化しろ

    • 一度読んだので軽くで終わらせた。だいたい4章の内容。
      • 院に行くような高学歴の人間はだいたいダジャレが好きだが、多分それは言語を厳密に扱う学術の世界への適性を示しているのだろう。
  • 読書猿ほか『独学の教室』。

    • 英語教師のコラムによると、英語の習得自体がテクニックらしい。おれたちはもう赤ん坊でないから英語で英語への教育を受けても理解することはできない。文法→聴解→英作文→瞬間英作文を喋る、というように、技術として学んでステップアップしていくべきらしい。
    • 志村真幸の南方熊楠に関する寄稿が面白かった。図書館にこもる生活や写経の参考としてマルクスの伝記でも読もうかと思っていたが、南方熊楠孫文も同じように大英博物館でひたすらに本を書き写していた。また、南方熊楠は書き写して記憶することの天才だったらしく、日々書いた抜書帳は蔵がいっぱいになるほどで、その何ページに何がかいてあるかも把握していた。
  • 荒木優太編著『在野研究ビギナーズ : 勝手にはじめる研究生活』
    • 情報科学やら心理学の在野研究はなかった。理系分野は生物学(新種探し)のみだった。
    • 独学だけが本当の学習だとアシモフも言っているし、高校まで(あるいは大学も)のような組織としての学びではなく、単騎駆けを厭わないのが独学の特徴のようだ。
    • 山本哲士のインタビューが強烈だった。大学を否定して、自分で最高の教育機関を作ろうとしている。

      ja.wikipedia.org

自分の中のモチベーションで学ぶ、という意味では、やっと今大学のとば口に立てたのかもしれない。試験でいい点を取る技術、そしてある程度の基礎学力はしっかり高校まででインプットしている。進振りまでは試験でいい点を取る技術でうまくこなしていたが、後期課程に進学してからはそうもいかなくなってしまった。自分で学んで進んでいく人間になるために、1年も時間を余分に取ることになった。入学したときの同期はとっくに卒業している。それでも、ポルノ=即物的なコンテンツ・快楽に青年期を無駄にしきらず、踏みとどまれてよかったと思っている。

現在進めている電磁気学の独学は、特に何かに役立てようという気持ちがあるわけではない。自分のペースメイクと自信の創出が大きな2つ、それに大学生の教養としての物理の理解と数式への慣れが続く。情報科学の独学もしたいが、とっ散らからないように注意したい。

理系という思考様式への意識の変性も、やりたいことの一つかもしれない。

ChatGPTの本やらなにやら、やりたいことはどんどん増えていくが、時間は有限だし、体力と集中力はそれ以上に有限だ。時間を作るために午前中に家を出たりできるようにしよう。寝る前・起きたあとに家のPCやらで無駄に時間を使わないように。

 

バイトを始めなければ。単純に金がなくなったし、留年によって人間関係がまた崩壊するし、12月末にタイに行く話が出てきている。タイミーで良いから一つやるか。

 

日本で言う「平和」とアメリカで言う「Peace」の意味は違うのだろう。銃が出てくるかという違いもあるし、寿命に対する捉え方も異なるはずだ。

 

ガザにはまた爆弾が落ちる。今度は本当の無差別に。

 

物理学者は無理な使い方で数学を扱い、数学者は血相を変えてそれを追いかけているらしい。そんな使い方したら定理壊れちゃう、みたいな感じか。

Twitter で医師を拾ってきて Google のソフトウェアエンジニアにするだけの簡単なお仕事

面白いブログ記事を読んだ。この方の怒りに共鳴できるわけではないにしても、見るべき景色とそこへ至るに必要なものを垣間見た。

nuc.hatenadiary.org

 

公務員試験を受けるかもしれない。以前外交官を将来の職業として考えていると話したら、親に勧められた。あと5か月しかないが、できることはやってみよう。

公務員試験において必要になる知識は法律や経済から自然科学まで幅広い。学部のおさらいとしては丁度良いだろう。

何かをゆっくりやっている途中で目移りしてしまうのはどうにかならないものか。経済学部生のための基礎知識300題統計学のための数学入門30講、そしてプログラミングコンテストチャレンジブック(=「蟻本」)など、やっておきたいものがどんどん増えていく。リーディングリストでも作るか。

 

『アンダルシアの犬』を観た。わけがわからなかった。Pixiesの”Debaser”で歌われている目ん玉に剃刀のシーン、そして女の腋(毛)がウニに変わるシーン、男Aの口が腋毛になるシーンなど、一度観たら絶対忘れないシーンばかりだった。腋毛で軸が通っているのか?女が男Aに耐えかねて男Bに行くという筋書きが見えるために、よけい混乱する。

 

駒場祭終了。準備日は軽トラでさつまいも運搬、毎日午後はFKENでライブ、空いている時間はコンカフェと充実したものだった。特にバンドについて備忘録を残そう。

1日目はFKENの部屋でエレクトリックセットのライブ。8曲を詰め込んだ。案外に知り合いが来てくれてよかった。2日目のためのDIがないと思っていたが、島村楽器に寄ったもののプリアンプ付きがなかったため買わなかった。

2,3日目は正門前ステージでのライブ。2日目はDIが壊れていておれのベースの音が出なかったうえ、PAがおかしくて半泣きになりながら時間を過ごした。結局夜にDIを買った。朝から夜まで出歩くことが3連続し、10時に寝たはずが翌朝10時半まで起きられなかった。

3日目はそれらを全て対策し、正門前ステージのトリとして相応しい演奏ができた。5曲+時間が余ったためアンコール1曲。演奏が進むにつれて暮れてゆく空。最後の「もう待てない」の終わり方がとてもよく、安倍君はやはり持っているなと実感した。

昔話と一緒に飛んできた

かぶとむしが体を探り当てる

立ち退かされた揚羽を追いかけて

幽霊蜘蛛の巣に帰っていく

縦糸を手繰り寄せ

振り落とす水平線

 

 

『ベルセルク』(2023/11/13)

ちょっと前に『ベルセルク』が無料公開されており、千年帝国の鷹篇の最後まで読んだ。ダークファンタジーの金字塔であると同時に、グリフィスとガッツ、そして鷹の団のどろどろの人間関係の話である。対等であろうとするガッツと依存しきっていたグリフィスのすれ違い。

読んでから、「対等な関係」について意識するようになった。たとえばバンドであれば、作曲したリーダーとただベースを弾くだけのおれには、役割の差がある。そのバンドにおいておれも楽曲を提供すればよい、という話ではなく、ただ自分も自作自演ができることが必要だと感じる。

また、自分が近代的主体であろうとしなければいけないと、漠然とながら考えるようになった。『ベルセルク』において人間たちは、運命の流れに翻弄されながらも、それに抗い、心まで敗北することなく生きている。圧倒的な強さを誇る使徒たちは、その実運命に敗れ、わが身のために一番大切なものを自ら手放した者である。

おれは選択ができないから留年した部分がある。実家を出たことがアフリカ渡航時くらいしかなく、そこでも自分ですべての家事をやったわけでもないし、下宿の用意も会社にやってもらっていた。選択や投企から自らを遠ざけていた。必然、自分の手の届く範囲はどんどん狭くなり、生活はどんどん薄味になっていった。今は責任の重みが肩にかかることの重要さ、そしてそこから解放される快感が確かに存在することがわかる。おれが恋愛をこれまでできなかったのも、裸の個人で他人と向き合い、ダメージを負う覚悟ができていなかったからだろう。ほとんどの者は中高生の時分に浅慮のまま突撃することで安全な傷つき方を知るのだろうが、そうしないまま年だけを取った。

現在主流のポストモダン思想では近代的主体は軽いものとされる。だが、ポストモダン思想が意味を持つのは、近代を引き受けた人間に対してではないか。自らの行動の責任を引き受けることができる人間は大人であり、その大人というモデルを補完するのがポストモダン思想である。近代的主体たろうとせずに、ただ責任を遁れるのは子供のやることである。大人にならなければならない、と高校生のころから思っていたが、自らの責任を取り、真の意味で自由人となることに憧れていたのかもしれない。おそらく、多くの運動体が社会主義の実現や被抑圧者の解放のための規範の再構成を理想に掲げる一方で、まず近代の徹底を求めるのも、同じような問題に直面するからであろう。ポストモダン思想のあるべき形は、近代人のブルースであるとでもいえばよいか。

 

電磁気を続けている。数式をPCに打ち込むよりも手書きのほうがずっと楽だ。Texを打つのはそれなりに手間だ。とはいえ、そのうち論文を読み書きすることにはなるので、そのリハビリも兼ねてPC媒体で続けてみる。ノートの写真やタブレットのスクショになったら察してほしい。

 

15日、国立大学法人法改悪反対デモに行った。その前日の院内集会にも行った。ただ友人から誘われただけだったが、学生自治が曲がりなりにも存在する駒場を居場所とする者として自分の立場をもつことになった。知り合いが呼びかけたスタンディングデモで、動員は十数人程度であったが議院の前でほとんど全員が絶えることなくトラメガを取り、呼びかけた。おれも東北大の学生の代読という形で参加し、連帯を示した。参加者には学生運動の歴史を知っている人が多く、シュプレヒコールと野次を全員で飛ばして場の活力を担保した。「ナンセンス」と叫ぶことなど、こういった機会を除いてほかにないだろう。昼は霞が関、夜は文科省前でアピールを行った。

通行人は特に70代くらいの方が好意的に反応してくれていた。彼らも通った道だからだろう。自民党系は知らないが、菅直人をはじめとした多くの政界人は学生運動を通っている。意外なところでは竹中平蔵が民青だ。とりわけ60-70年代に青年期を過ごした者たちは、大学での運動への参加によって政治意識を目覚めさせた者が多い。若い方ほど冷淡な印象。

『大学で何を学ぶか』(2023/11/12)

浅羽通明本人から古本で買った。四谷三丁目と新宿の間でときどき開業している古本どらねこ堂、超おすすめです。なんといっても店主がしっかりした物書きだからね。

なんどか途中まで読んで忘却することが多かったが、治験のついでに読み通した。240ページ弱、3-4時間程度。

企業にとって現在の大学は何のためにあるか。それは入り口での地頭の保証、そして出口での人脈の保証である。大学ではすごい人も含め、たくさんの人を見ることになり、人物のすごさの相場を知ることもできる。そして、(文系の)学生は中で思い切り遊ぶ。

多くの人はベルトコンベア的に就職まで人生を送る。それでよい。だが、ちょうどおれのように、なんとなくの流れから逸脱してしまう人はいる。いつか「なんとなく」の人生を外れてしまったとき、どう自分の人生を生きていくか。自分が何に対してどれだけ耐性をもつかから、自分の得意分野や努力できるポイントを見つけるのが一つの方法である。

2-30年前の本であり、時代を感じる部分もある。オザケンが若者カルチャー代表として出ている。だが、メッセージの縦軸は古びていない。

 

宿泊型の治験に来ている。読書が捗る代わりに間食がまったくできないのがかなり辛い。ガムでもいいから噛みたい気分だ。間食の代わりに水ばかり飲んでいるので、水中毒になってしまうかもしれない。出たら500mlの清涼飲料水のペットボトルを一気飲みしよう。

友人に通話で苦言を呈され、その場で絶交された。指弾されたことは大事ではないと思っていたが、心当たりはあった。ただ謝ることしかできず、対等な人間として何かしらの反論や事実確認を加えてやることができなかった。今からでも書面でそういったことをするべきだろうか。

 

ベースを指弾きすると右手人差し指と中指を酷使し、指先が固くなる。武道の達人の手はとても柔らかいというが、ベースの達人の指先も柔らかいのだろうか。

オリジナル曲にベースをつけるときは、一度頭の中でベースラインを思い浮かべたうえで、それを実際の肉体の運動に起こすという作業をしている。「透明に飛ぶ」歌メロパート、「迷子の兵隊」などはそれでうまくいっているが、今度の新曲1ではそれに失敗してしまい、今もただルート音を弾くだけになっている。質の悪いことに、今のベースラインに根本から不満があるのに、イメージされたベースラインは現在のものとほとんど変わらず、前向きに捉えたとしても漸進的な改良にすぎない。それなりに時間をかけているはずだが、自分の理想の芯を捉えられない。

そして、現在のおれはベースのメロディだけでなくリズムへの理解がとても甘い。ただ同じ音を弾くだけでも、何拍目に音を配置すればどんな効果があるのかをほとんど理解していない。訓練をしたいと思うが、どうすればよいかわかっていない。