読んだもの

ある一人の友人を想定読者に書いていくブログ∧独学ノート。

タイ旅行(2023/12/22-29)

12/22-29でタイにいる。変なものをたくさん摂取する体験をしている。また書くかもしれないし、対面での話のみに留めるかもしれない。初対面の知り合いと来て、よい体験をしているが、おれには一人旅のほうが向いていると思った。

 

ツイッターで誰かが言っていたが、創作は一人でやると世界に開き、仲間とやると仲間に閉じるらしい。バンドをやっている身として、創作に関してはそうは思わないが、こと旅行に関してはこれが強く当てはまる。今回は3人旅だが、観光スポットや色々なものの摂取こそすれ、タイ語を覚えたり人と仲良くなったりすることは今のところほとんどない。この3人でしかできないことをしてはいるものの、ひとり街をうろついて、一介の通行人/旅人として生活や日常に触れることはできていない。

精神はより交通しやすいものと交通してしまう。通常交わることのなかったであろう現地の精神と自分の精神を交通させるには、3人では多すぎた。次の旅行に関しては、少なくとも一人旅の行程を設けよう。

 

チャイナタウンを訪れて、中国語の学習へのモチベーションが上がった。2週間ほどの期間を設け、台湾にニセ語学留学をしたいと思う。日本で中国語を勉強したうえで台湾に渡航し、語学学校には通わずに、例えば台湾大学のキャンパスを訪れて(英語/中国語で)友人を作り、その友人とともに遊びに行った際にまた友人を作り、……と続けて、実際の運用能力と現地の精神との交通をひたすら行う。無理難題に近いことは承知しているが、それを実現するために少しばかり動いてみたい。文法をもう一度さらいつつ、単語(というより漢字の読み)をひたすら覚えよう。日本人が中国語で欠片も意思疎通ができないのは、中国語における漢字の読みをほとんど知らないからだ。リスニング能力もスピーキング能力も、そこを補えば底上げされるだろう。小学一年生の気持ちに戻って、漢字練習帳の音読をたくさんやろう。

 

おれがベースを弾く理由は、楽器自体が楽しいからというより、様々な自分にない個性を持つ者たちと一緒に芸術を作り上げるのが楽しいからだ。たとえばカリスマを一番よい位置から観ることができる。あまつさえ自分のフレーズで操ることも。おれにとってコミュニケーションツールにあたる。だから、つい練習をおろそかにしてしまう。バンドという共同体を追放されない最低限のレベルを維持するだけで、あまり向上心を持続させられない。よくないとはわかっているが、なかなか練習を習慣とすることは難しい。今度行動設計を始めるなら、まずはベースの練習についてハックしようと思う。

 

なぜ、海外にいるとにゃーろんず(特に『ポケットに虹をつめて』〜『ズットチル』)がここまで心に染み渡るのだろうか。にゃーろんずがアフリカにおけるおれの最大の味方の一つだったのも一つの理由になるが、それにしても機内で聴くと必ず涙を流してしまうのは本人たちの魔力によるものが大きいだろう。通常のバンドサウンド的ポップスからkawaii future bassまで網羅する骨太なサウンドに乗った繊細な歌声、そしてノスタルジックな歌詞がじわじわと孤立感(≠孤独)に効いてくる。

にゃーろんずには職業作曲家によるNFTやAIボーカルなどの音楽テクノロジーの実験台としての面もあるが、最近のにゃーろんずをすべて聴けているわけではないから、それを論じるために音源を買い集めようと思った。

眠れずドミトリーのロビーを彷徨いていたら、受付のタイ人のおじさんに煙草を分けてもらった。お互いに片言の英語で話しながら煙草に火をつけてもらう。おじさんは夜勤の時間でヨーロッパサッカーを観ているらしく、リヴァプールを応援していた。そういえばルワンダ人もヨーロッパサッカーを観ていたな。タイの街並みにサッカーユニフォームを売るお店も多い。

イープン(日本)から来たことを伝え、これまでとこれからの行程を話す。チェンマイに行けなかったこと、バンコクよりスラートターニーのほうが好きなことなどを話す。

話している途中で煙草を吸い終わる。メンソールが入った、軽い煙草。日本のおじさんとあまり変わらないな。先に吸い終わっていたおじさんが翻訳機としてスマホを持ってくる。タイ語で発信する日本人YouTuberを見せてくれた。

タイのお寺の詣り方やら日本のお寺との違いやらを話していると、缶のコカコーラまで分けてもらってしまった。コロナの後遺症はいつの間にかなくなっていて、香りを感じて美味しく飲めた。新年は日本で祖父たちと迎えるために帰ると話した。いつかまた来ると言って、部屋に戻る。

刺激物を取りすぎてさらに眠れなくなり、こうして文章を書いている。微積分をやってもよかったが、今更ロビーに戻るのも気まずい。旅情としてにゃーろんずを聴きながらこの文章を書いている。4:35だし、もう寝よう。

 

 

年が明けた。地元の神社(not氏神)の初詣の列に並んで年を越した。神酒の量が案外に多すぎて半ば頭が回らなくなっている。最初に聴く音楽はゲンショク綺談の駒場祭ライブ録音、アンコールの「もう待てない」とした。

この一年のテーマは、抑制と解放のよりよい制御とする。肛門期をもう一度、今度はしっかり楽しくやりたい。この一瞬ではなく、楽しさを時間で割った平均値を最大化する。要は、昼まともに活動し、中期的なプロジェクトに参画しつつ、享楽的に生きるということだ。

 

おれは旅行先の風景やら浮かんだアイデアやらを抑制=31文字に収まる形に減算することで短歌を詠んでいる。そしておそらく作曲も似た工程を経るものであると思う。一方、バンドでのアドリブにおいては一定のルールに沿った解放が求められる。そちらはある程度できるが、作曲はできない。抑制の上達を頑張りたい。

 

12/30に、駒場の科学技術論で博士をやっている方とご飯を食べた。タイでの(サイケデリック)体験を話し、素面でのキマり方について話し合った。彼は一時期早起きでキマるようになっていたが、今はそうでもないらしい。そして、頭の使い方にメリハリをつけることで楽しく生活ができているらしい。曰く、ゆるめるとひらがなも書けなくなる。

日本で精神に影響する薬物を摂ることは難しい。だから、素面の状態で精神に変性をもたらす必要がある。そのために、享楽的に生きることを今年の目的とする。勉強を頑張るとしても、それは精神に変化をもたらすためだ。たとえばコンピュータ科学の勉強であれば、自分へのアルゴリズム=思考法の実装と、仕事などとして行ける場所を増やして人と会うためという目的がある。

 

タイでのサイケデリック体験から、ストレスをためる心の容器の底に小さく穴が空いたような実感がある。電車の中で人々の顔を見渡してはその情報量の大きさ(あるいは小ささ)に憤慨する自分がいるが、そのストレスを引きずらなくなった。

 

最近、サイケデリクスの情報収集をするようになった。シリコンバレーの薬物汚染の記事を読み、LSD大好きなアメリカ人がキマッてる人たちにインタビューする動画を垂れ流し、明日はハクスリーやらの本を読む。ここまでサイケデリクスに心を惹かれているのは、タイでの体験を措くとして自我の変性に興味があるからだろう。幻覚剤で一度ぐにゃぐにゃに歪んだ世界を観たうえで、それでも変わらない自分があることを確認してみたい。いや、幻覚剤はただのツールにすぎない。酒やら糖分やらのソフトドラッグ、そして音楽や映像といった五感に訴えかける芸術、他人との一体感、そういったすべての体験によって自我を再編成することを目指そう。享楽的に生きるというのは、そういった体験のために飛び込める人間になることを目指すということだ。60年代後半からの文化に惹かれているのは、薬物などの具体的な面があるとしても、抽象的な部分で青年たちが社会と自己を改良することを目指し、下部構造に乗ってそれがうまくいったからだ。まだ若いし、少なくとも20代のうちは自らの可能性を上向きととらえたい。ビッグテックに入社して西海岸の文化に浸りながら一人旅を続けつつ仕事をするという数年後の自分を想像したり、一人旅のための金をためながら勉強を続けようと考えることもある。それを実現するために、下部構造を整えて、システム1だけで生活していても目標に到達できるようにしよう。

 

何も継続できないという悩みは、やはり通時的な自我が弱いことに起因するだろう。何かのために働くということがいままであまりできなかった。子供が野菜を美味しく食べられるようになるまで時間がかかるように、何かを楽しく感じるようになる(強化できる報酬を得られる)までは時間がかかるから、いろいろなものに手を出すとしても、それまでやめずに忍耐するのが今年の目標となる。

 

電磁気学写経のページがとんでもなく重い。分割したらかなり軽くなったが、これは単純な量が悪いのか、それとも数式や図が重いのか。このページはそれほど重くないし、おそらく後者だろう。図を写真で入れていた3章を抜いたらかなりマシになったので、図が悪さしていると推測する。しかし今日(1/18)はやけに突っかかるところが多い。変数がいきなり消えたり、無理のある変形がなされたりするところにやけに多く気がつく。ペースも落ちるし、何よりモヤモヤが残るが、未来の少し賢い自分に任せるとする。

 

継続することで自我を変容させることが今年やることの一つとなる。例えば語学、身体化された母語とは違った思考の構造化のやり方を学ぶことで、考え方に間違いなく変化があるだろう。第二外国語である中国語は1日3分Duolingoで触っているが、余裕ができたときにAnkiかなにかに切り替え、本腰を入れてもよいかもしれない。買ったままになっている『第九軍団のワシ』とか洋書も読みたい。

ただ、継続の難しさを身にしみて知っているので、できるか不安に思っている。自分の身体への鈍感さ、勉強自体の遅効性を考えると、明確にキマるときというのは存在しないだろうし、テストでもないと節目は生まれないだろう。中国語ならHSKやら中検になるだろうな。情報科学の勉強のツールとして、無料で受けられる公務員試験を受けてみようと思う。就活の言い訳もつく。

そのためには勉強をしなければならない。そして、そのために時間を作らなければならない。ならば、毎日9時に家を出るリズムを作ろう。出て何もすることがないなら散歩で良いし、外の温度を確認するだけでも良い。独学大全に時間管理の章があったから、あとで実践してみよう。

 

しかし、なんでユーミン(荒井由実)は1973年の『ひこうき雲』から全く古びていないんだろうな。ツイッターか何かで、八代亜紀は感情移入の余地を作るため歌に気持ちをあえて載せないというようなことが書いてあったが、表題曲の歌唱に同様のものを感じた。例えばラスサビで伸びやかに歌っているが、そこに何かが乗っている感じはあまりしない。そして、その余白にリスナーが入り込んで感動している気がする。

ベクトルはまったく違うが、音楽のほうがキマる。

 

おれは数日後の自分のことをもう少し思いやってあげたほうが良い。読んだものはPDF2ページ以上ならメモを取ったほうが良い。肩の上に乗れる自分だけの巨人を作るつもりで、どのような形でも良いから文献記録を取ろう。

Tex打ちのペースが上がっているのがわかる。これは間違いなく慣れだ。そして、手をつけるまでの時間が増加していることも。数式への慣れによってわからない部分の存在がだんだんとわかるようになってきたために、手を付けることで発生する前後との脈絡の確認=復習の負荷を重く感じているのだろう。その場では手を付けるしかないが、それ以外の場面ではテキストを持ち歩いて読むだけの復習をしてもよさそうだ。