読んだもの

ある一人の友人を想定読者に書いていくブログ∧独学ノート。

『ベルセルク』(2023/11/13)

ちょっと前に『ベルセルク』が無料公開されており、千年帝国の鷹篇の最後まで読んだ。ダークファンタジーの金字塔であると同時に、グリフィスとガッツ、そして鷹の団のどろどろの人間関係の話である。対等であろうとするガッツと依存しきっていたグリフィスのすれ違い。

読んでから、「対等な関係」について意識するようになった。たとえばバンドであれば、作曲したリーダーとただベースを弾くだけのおれには、役割の差がある。そのバンドにおいておれも楽曲を提供すればよい、という話ではなく、ただ自分も自作自演ができることが必要だと感じる。

また、自分が近代的主体であろうとしなければいけないと、漠然とながら考えるようになった。『ベルセルク』において人間たちは、運命の流れに翻弄されながらも、それに抗い、心まで敗北することなく生きている。圧倒的な強さを誇る使徒たちは、その実運命に敗れ、わが身のために一番大切なものを自ら手放した者である。

おれは選択ができないから留年した部分がある。実家を出たことがアフリカ渡航時くらいしかなく、そこでも自分ですべての家事をやったわけでもないし、下宿の用意も会社にやってもらっていた。選択や投企から自らを遠ざけていた。必然、自分の手の届く範囲はどんどん狭くなり、生活はどんどん薄味になっていった。今は責任の重みが肩にかかることの重要さ、そしてそこから解放される快感が確かに存在することがわかる。おれが恋愛をこれまでできなかったのも、裸の個人で他人と向き合い、ダメージを負う覚悟ができていなかったからだろう。ほとんどの者は中高生の時分に浅慮のまま突撃することで安全な傷つき方を知るのだろうが、そうしないまま年だけを取った。

現在主流のポストモダン思想では近代的主体は軽いものとされる。だが、ポストモダン思想が意味を持つのは、近代を引き受けた人間に対してではないか。自らの行動の責任を引き受けることができる人間は大人であり、その大人というモデルを補完するのがポストモダン思想である。近代的主体たろうとせずに、ただ責任を遁れるのは子供のやることである。大人にならなければならない、と高校生のころから思っていたが、自らの責任を取り、真の意味で自由人となることに憧れていたのかもしれない。おそらく、多くの運動体が社会主義の実現や被抑圧者の解放のための規範の再構成を理想に掲げる一方で、まず近代の徹底を求めるのも、同じような問題に直面するからであろう。ポストモダン思想のあるべき形は、近代人のブルースであるとでもいえばよいか。

 

電磁気を続けている。数式をPCに打ち込むよりも手書きのほうがずっと楽だ。Texを打つのはそれなりに手間だ。とはいえ、そのうち論文を読み書きすることにはなるので、そのリハビリも兼ねてPC媒体で続けてみる。ノートの写真やタブレットのスクショになったら察してほしい。

 

15日、国立大学法人法改悪反対デモに行った。その前日の院内集会にも行った。ただ友人から誘われただけだったが、学生自治が曲がりなりにも存在する駒場を居場所とする者として自分の立場をもつことになった。知り合いが呼びかけたスタンディングデモで、動員は十数人程度であったが議院の前でほとんど全員が絶えることなくトラメガを取り、呼びかけた。おれも東北大の学生の代読という形で参加し、連帯を示した。参加者には学生運動の歴史を知っている人が多く、シュプレヒコールと野次を全員で飛ばして場の活力を担保した。「ナンセンス」と叫ぶことなど、こういった機会を除いてほかにないだろう。昼は霞が関、夜は文科省前でアピールを行った。

通行人は特に70代くらいの方が好意的に反応してくれていた。彼らも通った道だからだろう。自民党系は知らないが、菅直人をはじめとした多くの政界人は学生運動を通っている。意外なところでは竹中平蔵が民青だ。とりわけ60-70年代に青年期を過ごした者たちは、大学での運動への参加によって政治意識を目覚めさせた者が多い。若い方ほど冷淡な印象。